最前列で映写幕を 第一幕「わたしはロランス」(監督グザヴィエ・ドラン)1

2023.01.11

◆前置きとプロローグの伏線について

 まったく知らない若手の監督作品を紹介されたとき、誰でも多少訝り(いぶかり)ながらそのDVDを手に取るかどうか考えるものだろう。僕も似たような感情を持ったものだが、紹介者が無類の映画好きの女優澁谷麻美さんだったので言うことを聞こうと思った。

 既に彼女はグザヴィエ・ドラン作品を総て観ていて、一押しが「わたしはロランス」であったのだ。2012年、監督23歳のときの第3作品である。

 まず出だしが面白い。街中の普通の人々のアップが続く。彼らはほとんど演技なしで、その容姿だけで何かを言っているようにも思える。このようなシーンは以前にもあった。それはパウロ・パゾリーニの「奇跡の丘」である。この正面からのアップを次々に繰り出されたとき、ボッシュやブリューゲルに出て来そうな絵画的な顔もあるものだと感心させられたのだが、おしなべて彼らはアンチキリストの無知な衆生、または入信前の人々であり、そのカテゴライズが無言の演技だったのだ。パゾリーニは映画の撮り方が分からないまま始めたので、この技法を編み出したといわれている。では「わたし…」では何を見ていたのか。次のシーンで大柄な女がタイトなスーツを着て大股に歩いていくシーンがある。髪をなびかせてはいるが顔は見えそうで見えない。少し観察力があればわかるのだが、これが導入部であり、何かが起こりそうな予感で終わる。

 場面が変わり、上半身裸の男が考え深げにキッチンでこぼしかけた炭酸水(物事はいつも上手くいかないと言っているような)を飲みながら煙草を吸っている。その傍らに月めくりのカレンダーが見え、1989年11月であることが分かる。その月にベルリンの壁が崩壊したのだ。体制、思想から解き放たれたと感じたヨーロッパ人は多かったであろう。しかしその男は喧噪を余所に考えに耽っているのである。グザヴィエ・ドランは特典映像のなかでこの解放された時期を意図的に選んだと言い、最後の砦がトランスセクシュアリティでありこれはまだ理解される時期ではなかったと述べている。

この二つの描き方だけを見ても、グザヴィエ・ドランを若々しい描写力を持った監督とは言えない。彼は映画の文法を熟知している。むしろ手練れといっても過言ではない。そしてこれらは伏線である。もう少し先を観てこれらの場面を思い出すことが出来れば、それがなかなか抑えた表現になっており気付きにくいだが、「ロランスが女になりたがっている」ことの、前者は他者にとっては違和感、不快感であり、後者は自己にとっては余りにプライベートな心境であることが理解されるのである。


いがらしデンタルクリニック | 新橋 歯科
院長 五十嵐淳雄