最前列で映写幕を 第一幕「わたしはロランス」(監督グザヴィエ・ドラン)8

2023.07.11

◆「欲望という名の電車」のマーロン・ブランドに対するオマージュとは

 特典映像の中でグザヴィエ・ドランは「欲望という名の電車」のマーロン・ブランド-にオマージュを捧げていると、述べている。テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲の映画化である。ブロードウェーとロンドンで興行されていて、その後エリア・カザンはロンドンからはヴィヴィアン・リー(ブランチ役)を、マーロン・ブランドー(スタンリー役)とその他はブロードウェーから選んだ。

 ブランチは妹ステラを頼ってニューオリンズに来る。『欲望』という名の電車に乗り、『墓場』という電車に乗り換え、『極楽通り』にたどり着く。この姉妹は以前、裕福な家庭に育っていたが、今は没落しており、妹は工場労働者のスタンリーと一緒に暮らしていた。彼は野卑で博打好きで、取り澄ましたブランチを嫌った。

ある日激しい夫婦喧嘩の末、ステラとブランチは階上の友人の部屋に避難する。酔っぱらって帰ったスタンリーはステラに戻るように、あられもない姿で懇願し泣きわめき続ける。根負けしたステラは階下へ下りて行くのだが、それは彼女がスタンリーから狂おしいまでの快楽を得ているからに他ならない。スタンリーはその点を理解しており、その利己的な愛欲が直ぐに達成されることに不安はないのである。

 これはロランスのフレッドに対する態度ととても近似している。彼はフレッドの亭主も息子も歯牙にもかけない。また自分に理解のある若い恋人に対してさえも同様なのだ。恐らくこれはドランの恋愛観であり、愛するということは利己的な行為そのものと言っているかのようである。

 前述の澁谷麻美さんと話した時、ロランスは映画の中で点としては、幾つも描かれてはいるけれど、それらを全体像として結ぼうと思うとなかなか上手くいかない、と興味深い意見を述べていた。これは僕も似た印象を持ったものだったが、原因は何処にあるのだろう。

 性同一障害のロランスが、カミングアウト後の社会的制裁を受けながら、文筆業で次第に名が売れていくのが縦糸とすれば、フレッドが変貌していく恋人ロランスに対し、理解、離反、再会を繰り返すのが横糸とも取れようが、その限りではロランスは見えてこないのではないか。この映画が一定の評価を持ちながら、何か隔靴掻痒感があるのはロランスの人格に対する理解の方向性に一般的にずれがあるためと思うのである。誤解を恐れずに言えば、ロランスは結構悪い奴である。前述のカフェの騒動の無理解も、イル・オ・ノワールに連れ出したことも、「欲望という名の電車」のスタンリーの性格が垣間見え、そこを理解すれば、ロランスの点は線に結び付くと思う。


いがらしデンタルクリニック | 新橋 歯科
院長 五十嵐淳雄